BLOGうつわ知新2020.06.30

祇園祭

屏風に見る桜の美学うつわと料理は無二の親友のよう。いままでも、そしてこれからも。 このコンテンツでは、うつわと季節との関りやうつわの種類・特徴、色柄について「梶古美術」の梶高明さんにレクチャーしていただきます。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

祇園祭

 京都に住まう者にとって、7月といえばやはり祇園祭の月でしょう。
祇園祭においては、17日と24日の山鉾巡行はもちろん、実は7月初旬からほぼ一カ月の期間の中で様々な行事が執り行われています。つまり、祇園祭は7月をまるまる使った、とても盛大なお祭りなのです。

 祇園祭といえば京都独特の祭りと思われがちですが、日本各地にも同様の鉾や山車(だし)を曳く祭りが残っていますし、以前、ネパールを旅していてこの祇園祭とそっくりの鉾が曳かれるのを見たこともあります。
 祇園祭の山鉾が世界中から取り寄せられた工芸品や宝物で飾られることからも、国内だけでなく、やはり広く世界中からの影響を受けているものと思われます。

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 さて、今回ご紹介する二つの染付の鉢は、どちらも同じ図柄を有しており、その図柄はまさに、祇園祭のシンボル的なお飾りの「祇園守(ぎおんまもり)」のような紋様です。ですから私は7月にこの鉢をよく使わせてもらいます。
 ひとつは古染付(こそめつけ)とよばれるもので、約400年前の明朝末期に中国の景徳鎮(けいとくちん)で作られた「古染付祇園守図兜鉢(こそめつけぎおんまもりずかぶとばち)」です。
 もうひとつは、ほぼ同時代に景徳鎮より400㎞ほど南下した場所にある漳州窯(しょうしゅうよう)で焼かれ、別名、汕頭焼(すわとうやき)と呼ばれる「呉須祇園守図兜鉢(ごすぎおんまもりずかぶとばち)」です。この漳州窯で焼かれた品を呉須・呉州・昂子と表記し、いずれも「ごす」と読ませています。染付の染料の「呉須」とまぎらわしいので注意してください。

 いずれにせよ、古染付と漳州窯の呉須の二種類の焼物は、海を渡った明の国に日本人が発注し、1620年から1640年頃にもたらされたものと考えられています。
景徳鎮は現在においても焼き物の一大産地です。時をさかのぼり、明の時代においては、国家が管理する官窯(かんよう)として発達を遂げていました。しかし、政治体制の乱れにより、労働に見合った保護が受けられなくなった職人たちは、同じ時期に発生した、貨幣を使って物を売買する経済習慣に乗り切れず、国家からの仕事だけでは暮らしが立ち行かなくっていきます。やがて、職人たちは官窯を離れ、自分達で国の政策に反した陶磁器を生産して、独自のルートで流通をさせていくことになります。
 このことは、国家によって認可されていない交易を発展させ、景徳鎮の人たちに貨幣的な富をもたらしました。それと同時に、多くの陶磁器を、東インド会社を通じて西洋へ、そして日本へももたらしました。そして、その中で形や文様を指定しての発注が行われた結果、この祇園守に似たの図柄が出来上がったのだろうと想像します。
こうして説明してしまうと、産地も違うのに絵柄が揃っているということは、まるで祇園祭に馴染みがある京都の人のための限定的なうつわのように思えてきますが、そうではなく、この紋様は数ある吉祥紋のひとつと考えるべきでしょう。このめでたい図柄がたまたま産地の異なる漳州窯へも発注され、産地の異なる同じ図柄の鉢が祇園祭に適したものとして、ここに揃ったものだと思います。

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 この二つを比較すると、それぞれの焼物の特徴が箇条書きできるくらいにはっきりしています。
古染付は薄手で、絵の描かれていない余白部分が白く、呉須(コバルト)の発色も明るい。縁には虫喰いと呼ばれる、欠けたようにも見える釉薬の剥がれが見受けられます。高台の畳付(たたみつき)部分には釉薬が掛からず、そこから見える土色は白く、高台周辺には少量の砂の付着が見られます。高台内には高台を削り出すときに放射線状に残った鉋 (かんな)跡が残されていることが多いのも特徴と言えるでしょう。
 一方の漳州窯は厚手で、白い余白部分も曇天の空のようにくすんだ色をしており、呉須の色は黒く沈んでいます。虫喰いはないものの、裏面の高台内外にはべっとりと多くの砂が付着しており、釉薬の切れ目から覗く生地は白とは程遠い濁った色をしていますの見える部分から見える粗雑なうつわの印象が強く感じられます。呉須は生地の色が美しくないことを隠す目的なのか、分厚く釉薬がかけられていて、古染付の高台内に見られた鉋跡は見ることができません。

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 景徳鎮と漳州窯は、400年前の明ではライバル的な産地でありながら、景徳鎮の方が高い評価を得ていたのか、染付、色絵、青磁に関わらずより広く世界に輸出をされていたようです。
 それに対して、なんとか巻き返しを図るべく、漳州窯でもこの二つの鉢の対比にみられるような、景徳鎮をまねた形や図柄を生産して世に送り出したようです。しかし、景徳鎮ほどの評価を得ることはなく、特に西洋社会においては下手な焼物と評価されていたようです。日本においては逆にその粗削りな表現が面白いと呉須赤絵(ごすあかえ)は特に好まれました。

 この二つにみられるような兜形の器形は、見込みの部分が平らで広く確保できているために、たっぷりの料理やお菓子も盛りやすく、それでいて狭い茶席でも取り回しが容易です。そんな絶妙なサイズ感が、日本の茶人たちに重宝されたようです。

 本来、利休の趣向の侘茶では、地味な土ものの茶器が好まれ、白や藍さらには色絵磁器のような華やかなうつわは用いられることはありませんでした。しかし利休のあとを引き継いだ古田織部をはじめとする大名茶人たちは、利休の美意識から一歩踏み出して、新たな道具も取り込んで自分たちの世界を表現しようとしました。つまり茶の湯の世界でも大名であることの権力を誇示し、自分の美意識を鮮烈にアピールしたい欲求が、明からもたらされたうつわなども広く取り込む結果を導いたのだろうと思うのです。

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 祇園祭のイメージで使えるうつわは他にもあります。ご紹介するのは「棗(なつめ)」と呼ばれる抹茶を入れておくための漆のうつわで、「時代片輪車図蒔絵平棗(じだいかたわくるまずまきえひらなつめ)」です。「時代」という表現は作者が不詳の古作に対して使う表現です。「片輪車」は現在では誤解を招きやすい表現のため好まれず、「波車(なみぐるま)」あるいは「車洗(くるまあらい)」と置き換えられているものも多く見られます。

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 棗の蓋裏には祇園祭を執り行う八坂神社の紋の一つである、三つ巴の紋が散りばめられています。祇園祭のために作られた棗というわけではないと思われますが、表面に施された車輪が祇園祭の鉾を連想させると共に、三つ巴紋が八坂神社にご縁がある物として、この時期に用いたものです。

 さて、ここで一つ知っておいていただきたいことがあります。お茶会の道具建てを考えるときには「なぜ今回これを用いたのか」という理由を明確にしておかなければなりません。お茶会の中でその理由を参加者に披露し、それをご馳走として楽しむ習慣があるからです。食事の中で旬の食材を用いて、その産地にまで話がおよび、食事のシーンを盛り上げるのとよく似ています。うつわにおいても、なぜ今日このうつわを使ったのかという理由は、食事のご馳走のひとつになり得るものだと思います。ですので、うつわ選びにも、茶会の道具立て同様、細心の注意を払えればより楽しい演出ができるかな、と思います。

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 最後に、私が祇園祭の頃にぜひ使ってみたい菓子器をご紹介します。
京都で銀製品を製造する老舗、竹影堂の銀の菓子器です。銀を使って笹の皮を表現したものですが、その形状から粽(ちまき)などの長物にちょうど使いやすいものになっています。
 祇園祭の時期、粽は好んで食べられるのですが、粽の起源は中国の紀元前の楚(そ)の時代の故事に由来すると言われます。
楚の国の懐王(かいおう)に仕えた重鎮に屈原(くつげん)という者がいました。楚は常に大国・秦からの侵略に怯える立場にありましたが、ある時、秦の調略によって、和平協定を結ぶ話が持ち上がりました。
多くの家臣はそれに賛成をしたのですが、屈原はひとり秦の策略を見抜き、断固としてそれに反対をしました。そのため、屈原は地方に左遷されてしまい、都落ちして赴任先に赴く途中、楚の都の陥落を耳にします。これを悲観した屈原は入水自殺を図り、湖の底に沈んでしまいました。民衆からの信望も厚かった屈原に対して、人々は魚に食い荒らされる屈原の屍を救いたいという願いから、湖に食べ物を投げ入れます。
 しかし、直に投げ入れたのでは湖面にいる魚にばかり食べられてしまい、湖の底に眠る屈原のところまで届かないことに気が付き、笹にくるんで投げ入れる習慣が始まった。それが粽の始まりと言われています。

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 また、応仁の乱により一面の焼け野原と化した京の都において、天皇家は困窮を極めた時期があったと言われます。その窮状を見かねた吉野の葛族(くずぞく)が自分たちの主食としている葛を献上しました。その葛の調製を承ったのが、川端道喜(かわばたどうき)でした。
 以降、川端道喜の水仙粽は明治初年まで皇室に献上され続け、現在の日本の粽の形を作りました。
粽は笹でくるまれていますが、本来は茅(ちがや)を用いた時代もあり、「夏越の祓(なごしのはらえ)」の頃には、神前に茅で編んだ大きな輪「茅の輪(ちのわ)」が設置され、人々はそれをくぐることによって、半年の穢れを祓い、夏の疫病や災厄などから免れることを祈願しています。
 このような様々なストーリーを経て、笹や茅を使ったものは夏や祇園祭を表す象徴的なものへと考えられるようになりました。
 祇園祭においても、鉾町でお守りとしての粽が売られたり、鉾の上から粽が撒かれたり、また祇園祭に近い時期の茶会には粽をいただく習慣が出来たのです。

 しめくくりとして。
 このように京都では祇園祭と言う一大行事が茶会の道具に、食事のうつわや食材にまで影響を及ぼし、また私たちもそれぞれに趣向を凝らすことによって楽しみ、梅雨から盛夏にかけての厳しい気候を乗り切ってきたわけです。

食知新

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