BLOGうつわ知新2020.10.22

織部焼

「うつわ知新」の配信は2年目に入りました。今年は、季節ではなく備前や織部、古染付といった焼物ごとにうつわをご紹介し、梶高明さんにそれぞれを解説いただきます。 また、せっかくの美しい器ですから、京都の著名料理人に、それぞれの器に添う料理を誂えていただき、料理はもちろん器との相性やデザインなどについてお話しいただきます。 2回目は「織部焼」について梶さんにレクチャーいただき、1回目同様、「洋食おがた」の緒方博行シェフに、器と料のコラボレーションに挑戦していただきました。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

織部焼

「象の足跡の化石が見つかった。」

どこか外国の話かと思ったら、日本の美濃地方の話でした。

象が生息していたくらいの大昔の美濃地方では、地形も現在とはずいぶん異なっていたそうです。

岐阜県と長野県の県境にある、お馴染みの木曽の御嶽山(おんたけさん)は、富士山より高く、激しく噴火を繰り返し、火山灰を撒き散らす活火山だったそうです。その火山灰が堆積した一部の地域が、広く陥没して東海湖と呼ばれる大きな湖となりました。象の足跡の化石は、ちょうどその東海湖の水辺にあたるところから発見されたそうです。

美濃地方は桃山の頃より、日本でも有数の焼物の産地でした。

それを支えたのは東海湖の底に沈んでいた火山灰の地層です。この火山灰は水中で堆積していたため、長い年月強い風化にはさらされず、その結果、粘り気が少ない砂混じりの「もぐさ土」と呼ばれる粘土へと変化します。「もぐさ土」というのはお灸に使うもぐさのような風合いであることからつけられた名前です。

焼きあがるとやや荒く、カサつくような表情を見せ、釉薬と生地の境目にはほのかな赤色を呈します。柔らかく軽い風合いが人々に愛され、黄瀬戸や志野をはじめ、今回お話する織部などの美濃の焼物は、この「もぐさ土」を基本に用いて作られました。

織部焼の名前はご存知の通り桃山時代の武将、古田織部に由来します。織部焼のことをお話するためには、織部の人物像や時代背景を含めた周辺の環境をお話しておかなければなりません。

古田織部重然(ふるた おりべ しげなり)は1543年、美濃の守護であった土岐氏(ときし)に仕える家柄に生まれます。ところが美濃に生まれ育ち、父親も茶の湯に熱心であった環境にありながら、しばらくは茶の湯にも焼物にも興味を示しませんでした。戦国の時代の渦に巻き込まれ、土岐氏から斎藤道三、その後は美濃侵攻時の織田信長に従います。

信長の死後は豊臣秀吉に仕え始め、千利休と深く関わることによって、ようやく茶の湯に目覚めたのが40歳の頃でした。その後、この世を去る72歳までの約30年間に織部が焼物にどんな影響をもたらしたかを知るには、彼の茶人としての人生を知っていただく必要があるのではないかと思います。

織部同様、信長に仕えていた千利休は、本能寺の変で信長が世を去った直後、その弔い合戦である「山崎の合戦」の際、秀吉の陣に馳せ参じ、今は国宝にも指定されている茶室「待庵(たいあん)」を山崎の地に建築します。新しい天下人は秀吉だと瞬時に見切った素早い行動です。利休はこれ以降、秀吉のそばで大きな存在感を示すようになりますが、同時に、織部との関係も深まって行きます。

茶の湯を単なる教養や作法ではなく、社交術として利用し、利休が天下人の側近に昇りつめていく様が、戦でのし上がって行く武将たちの姿よりも刺激的で、大いに織部には学ぶことがあったのでしょう。やがて織部は利休七哲と呼ばれるほど重要な利休の弟子として知られるようになります。

信長の時代には、まだまだ室町時代の美意識が強く残っていて、茶の湯の世界でも唐物の陶磁器がもてはやされていましたが、利休がもたらした侘茶の成熟とともに、流行の中心は素朴な高麗物へと移っていきます。その裏では、茶道具の国産化も確実に進められていきます。

そんな時代の流れに乗って、利休も自身のプロデュースによる国産の茶碗制作を手掛けていきます。ここでみなさんが思い浮かべるのはきっと楽茶碗でしょう。しかし、最近私は利休が最初に手掛けたのは信長からの依頼による美濃焼の瀬戸黒茶碗であったのではないかと考えています。

楽茶碗が先か、瀬戸黒茶碗が先かの議論は、今後の研究が解き明かしてくれるでしょう。

ともかく利休は茶碗を完成させることに成功します。

茶人の腕の見せ所は、それまでは渡来品の中から茶道具を見立てて、その美しさを探し当てることでした。しかし、利休は自ら茶道具を制作したことにより、国産の茶道具をデザイン監修して、そのセンスを広く世に問う、という茶人としての新しい存在意義を示したのです。

お洒落好きに過ぎなかった人が、ついに自分でデザインした洋服を売り出したのと同じことですから、織部も利休の新たな事業展開に驚いたのでないでしょうか。また同時に、やがて自らが陶磁器の制作指揮をするお手本としても多くを学んだことでしょう。

その後利休は茶人としても、秀吉の顧問としても頂点を極めていきますが、それは同時に、茶頭としては度を超えたものとして妬みを買い、疎んじられ、やがては利休自身の命を奪う原因にもなってしまいます。

天下人豊臣秀吉の傍に仕え、茶人として大輪の花を咲かせた千利休の姿は、織部にとって将来目指すべき目標に見えていたことでしょう。

それ故に、やがて訪れた利休の失脚は、受け入れがたいほどの失望を織部に与えたことは想像に難くありません。

しかし、自分が仕えた主家が織田家のように滅亡し、何も持たない秀吉がのし上がって天下を獲ることを当たり前のように見てきた乱世を生きた人間にとっては、利休の死は大きな夕日が没したのと同じで、ひとときの闇夜を過ごせば、明日にはまた日は昇ると誰もがわかっていたのではないでしょうか。

この時、織部は武将として成り上がることが、世の中の中心に近づく唯一の方法ではないことを学び、利休の担っていた役割を獲る、下克上的野望を叶えようとしたのだと思えます。

そして織部は豊臣家の茶の指南役筆頭となり、茶の湯を通じて大きな影響を持つ存在へとなって行くのです。

利休は、わび茶を完成させたと言われているように、質素で慎ましく、精神性を追求するために不要なものをそぎ落として行きました。

それに対し織部は、利休の遺志を継承しつつも、武家流の茶とわかりやすさを導入したのではないかと思います。具体的には、狭く暗い空間で目を凝らして道具を鑑賞していた茶室に、窓を設けて明かりを入れ、招かれた正客に付き添った者にも、同じ室内に留まりながら控えておくための相伴席(しょうばんせき)を設け、茶席を広げました。あえて茶室の中で身分の上下を明確にしたのです。

茶道具においては、国産の茶器をプロデュースしながらも、新しい感覚で舶来ものの登用も積極的に進め、華やかな中国の青華(染付磁器)や色絵磁器も採用しています。

また同時に「へうげもの」と表現されるような、窯の中の焼成過程で破れ歪(ゆが)んだ陶器を面白がって採用することに始まり、やがては人の手で積極的に歪みや変形を作り出すまでに芸術性の高いものとして昇華させます。

こうして織部の手掛けたことを取り上げて並べてみると、利休のわび茶からは大きく方向を変えていることがわかります。

以前、裏千家の名誉業躰の先生が「やはり古田織部や小堀遠州は大名の身分だから、どうしても華やかさを好む傾向がある。」とお話になっていたことが忘れられません。

たしかに織部が作らせた焼物、選別した舶来ものの焼物、これらは利休時代の焼物に比べ明らかに色彩的に鮮やかなものが多い事に気が付きます。見た目の存在感の強さも特徴的です。深い味わいを持った内面から湧き出るような主張ではなく、単純にサイズが大きい、ゴツゴツと角張っている、大きく歪められているなどの、目を凝らさずとも理解できる造形です。

そう考えれば、織部の表現は素人目にもわかり易いものだと言えるでしょう。

利休の時代は、茶の湯の中に厳格なまでの精神性を求めていましたが、織部が豊臣家の茶の湯の指導的な立場になると、武家たちの社交や楽しみのような華やかさも加わり、変化していったのだろうと推測されます。

やがて秀吉が没し徳川家が台頭してくると、織部は関ヶ原で徳川方に付き、徳川家の中でも茶の湯の指導的立場に付きます。

徳川の政治は士農工商の身分制度を明確にしていきますので、織部の打ち出した武家好みの茶が主流となり、町人が武家を指導していた利休時代の茶の湯から遠ざかっていきました。

また、織部焼の生産が始まった頃の美濃地方では、登り窯の導入という大きな技術革新が起こり、生産量が飛躍的にあがります。

きっと織部の手掛けた焼物が、大量に世の中に流れ出し、彼の名前を広める追い風になったのではないでしょうか。

利休が大きな力を持っていった経緯は、織部同様に家康もよく知っていたことでしょう。

大きな武力を持つわけではない織部でしたが、茶の湯の指導と、茶道具をプロデュースして得た商業的な影響力は相当なものがあったと考えられます。名声が上がることは、やはり織部の運命を大きく動かすことになります。それが事実であったか否かは定かでないものの、織部は大坂夏の陣と冬の陣においての豊臣方への内通と、家康への反逆の嫌疑で処分されてしまいます。

徳川の世を安泰なものにするためには、織部の持つ影響力は決して油断のならないレベルに成長していたことの証左とも言えるでしょう、織部が生み出した品々や美意識は嵐が吹き荒れたように、即座にこの世から抹殺されてしまいます。京都の中京(なかぎょう)には唐物屋と呼ばれた陶器商が軒を連ねていたようですが、その辺りに一時期大量に織部の手がけた陶磁器が廃棄された形跡があることが、発掘調査で明らかになりました。

元々主張の強い織部の焼き物は、時代の中で飽きられたのではないかという意見も聞いたことがありますが、やはり織部のすべては家康の指示の下で抹殺されたのだと私は思っています。天下人に見放されて廃棄された織部のうつわたちは、今は京都の西陣の京都市考古資料館に保存されていますので是非お出かけになってはいかがでしょうか。

いつものように長々と綴ってしまい、もっと簡単にご説明をした方が良いことは重々承知なのですが、織部焼については単に焼物のみを解説しても、その本当の姿を見抜くことはできないのです。焼物を語るより織部人物や歴史の流れを知った上で、ぜひ今一度、織部の焼物をしみじみと眺めてみてください。

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織部焼向付

典型的な桃山織部の鋳型に入れて製造した変形の向付です。

花籠に梅鉢模様をあしらっているものが4客、わらびに梅鉢をあしらったものが1客で一組となっています。これは、古いうつわに時々見受けられる取り合わせですが、1客だけ手の違うものを混ぜ込むことによって、陰と陽のバランスをとったものです。つまり、験担ぎ(げんかつぎ)です。外側に木賊などの模様を描き、緑の織部釉が流れ落ちる様を景色のアクセントにしています。

温かい肌色がうつわの柔らかさを感じさせますが、実は織部焼は往々にして、高温で焼き上げて硬く締まっていることが多いです。絵の具として使われた錆色(さびいろ)のものは、鬼板(おにいた)と呼ばれる鉄分を多く含む地層から採取した泥です。

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北大路魯山人造 織部釉 十字皿

魯山人は美濃の土と共に、信楽の土を混ぜて土味を面白くしたといわれています。

二つの異なる土を混ぜる場合、その収縮率が異なるために、このように窯の中で割れてしまうことがあります。このうつわは、どうやらもう一度窯に入れて焼き直しをしたのか、裂け目に釉薬が入ってくっついています。魯山人もある時から、自らこのような修復を手掛けるようになったと聞いています。裂け目が大変面白いアクセントとなって、表面を斑に流れた釉薬の景色が魅力を高めています。

流れやすい灰釉に銅の成分を混ぜることによって作られるこの織部釉は、釉薬の流れも一つの見どころと言えます。

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左手奥、弥七田織部千筋文茶碗。歪んでゴツゴツしている形状が織部らしい表現だと本文中に書きましたが、このうつわはずいぶん薄造りで、端正な形をしています。これは織部が世を去ってしばらくしてから製造されたもので、織部の名前を付けられているものの、織部好みの意匠ではありません。むしろ、京焼に近いような意匠だと思っています。織部の死後、美濃の陶工たちは織部の意匠を作品から消すことにずいぶんと苦労したことでしょう。その結果としてこのような、ガラスのデザートボールのような形にたどりついたのでしょう。本来の織部の焼物とは真逆の軽やかさが楽しい焼物です。

次に織部黒沓茶碗。本文中に信長の依頼によって利休が瀬戸黒茶碗をデザインしたようなことを書いておりましたが、まさにその瀬戸黒のサイズを大きくして、さらに沓形に歪めているのがこの茶碗です。歪めて大振りで存在感の強い、これがまさに織部の好んだ典型的なスタイルで、武家風だと思います。緑の織部釉は一切使われていないものの、これと似たような沓茶碗は唐津などでも見受けられ、これも織部の指導による意匠だと言われています。

弥七田織部塁座細向付。使い勝手の悪い向付ですが、客にとっては何が入っているのだろうと覗き込むことが楽しみなうつわでもあるので、「のぞき」とも呼ばれています。一般の家庭では湯呑として使うくらいのことでしょうが、当時の人たちはどんな料理をこのうつわで提供しようかと、頭をひねることが創造力を掻き立てる面白いうつわだったのでしょう。

また、火入れとしても茶会に登場することから、案外多くの数が現代に伝わっています。
塁座(るいざ)と言われる捻子や釘の頭の意匠を胴体に施し、幾何学紋を鬼板で描いています。
これも織部と呼ばれるものの、織部の死後に作られた作のひとつでしょう。

手前は、はじき織部香合が2点。

赤みがかった香合と、白肌の香合がありますが、美濃のもぐさ土には紅白の色があり、白は緑の織部釉に透明感を与えます。赤い土は赤織部と言われ、写真のように白い化粧土と鬼板の絵付けによって、興味深い意匠が施されているものが多くあります。私はこの赤織部の意匠が大好きです。

どちらも「はじき」と呼ばれる摘みのついた香合で、弾いてあそぶ玩具からこの名がつけられているとのことです。両方ともしっかり高温で焼き締められ硬く出来上がっています。

織部焼はこのように、茶碗から向付、香合に至るまで他の美濃の焼物とは比べ物にならないほどの多品種の焼物が焼かれていることから、織部の力の入れようが伺えるように思えます。