BLOGうつわ知新2020.11.27

古染付1

季節ではなく備前や織部、古染付といった焼物ごとにうつわをご紹介。京都・新門前にて古美術商を営む、梶古美術7代目当主の梶高明さんに解説いただきます。 さらに、京都の著名料理人にそれぞれの器に添う料理を誂えていただき、料理はもちろん器との相性やデザインなどについてお話しいただきます。

今回は「古染付」について梶さんにレクチャーいただき、「洋食おがた」の緒方博行シェフに、器と料のコラボレーションに挑戦していただきました。

「古染付」の解説については、古染付1「古染付の歴史」古染付2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。

「古染付」の世界をお楽しみください。

_MG_0023_1.JPG

梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

古染付1

 今月は、料理人だけでなく茶人にも人気のある「古染付(こそめつけ)」についてお話しいたしましょう。
 近年、茶会を催す人々が減少してきたおかげで、随分と金銭的評価が下がってきたものもある古染付ですが、かえって手に入れやすくなったとも言えるのかもしれません。近頃では料理人の皆さんのように、商いを目的とした方がお求めになる機会が増えているように感じます。

 さて、古い染付けと書くわけですから、呉須と呼ばれる青い染料を使った、古い時代の磁器であることはお分かりいただけることと思います。
 しかし、例えば日本で作られた「古伊万里」は、単純に古い時代の「伊万里」を指すのに反して、この「古染付」の「古」は単に古いということではなく、「古渡り(こわたり)」の染付を意味しています。「古渡り」というのは、古い時代の一時期に日本に輸入された、中国製の焼物などを指す言葉です。

 そして「古染付」と言うと、景徳鎮(けいとくちん江西省東北部)で製造された染付磁器を指す言葉で、明時代(1368~1644)の末期のものを意味し、それより古いものでも、新しいものでもないのです。
 私たちが染付と呼ぶ磁器は、中国では青花と呼ばれます。「釉裏青(ゆうりせい)」、つまりガラス状の透明な釉薬の下に、青い染料で絵を描いた磁器を示す言葉です。中国の染付磁器の生産が本格化したのは元の時代になってからと言われています。ご存知のように元(1271~1368)はモンゴル帝国のことで、イスラム圏や東欧にまでその勢力を拡大し、その中でコバルトの顔料を使った焼物の絵付け技術と、その材料を獲得したと言われています。

_MG_3563.JPG

 さて、お話を景徳鎮に戻します。
 景徳鎮は磁器を生産するための良質な陶土と燃料の松、さらに製品を運び出すための水運にも恵まれた土地でありました。北宋(960~1127年)の皇帝が景徳という年号(1004年)を制定し、その名をこの土地に与えたほど、この地の陶磁器は重要な産業として扱われていたということでしょう。元の時代になって盛んに製造されるようになった景徳鎮製の染付磁器は、「元染(げんそめ)」と呼ばれ古染付とは区別されています。

景徳鎮と地名に名付がされた1004年以降の陶磁器産業は、国策上、大変重要であったがために、宋・元・明の歴代の国家は直接その窯の経営に携わり、いわゆる官窯としての運用がなされていました。そのため、生産された陶磁器はすべて皇帝のために使用されたわけですが、いくら皇帝の権力が絶大とは言っても、ひとりで大量の陶磁器を使うことは不可能です。多くの場合、それは周辺諸国からの貢物への返礼品として、皇帝貿易の政略として使われていたようです。

 時代が進み、明の末期になると、国力が低下し、景徳鎮の産業の統括は中央の管理がゆるみはじめ、やがてその手を離れ、地方の出先機関やさらにその先の組織に委ねられるようになっていきます。それとは反対に皇帝からの注文は、陶磁器で生産できる限界を超えた、屛風や碁盤などにまで及び、難題化していきます。そんな横暴に耐えかねた景徳鎮の職人たちは、命をかけて抵抗するのですが、さらなる国力の低下によって、皇帝からの注文さえも途絶えるようになっていきます。

 明国は当初海外との交易を禁じ、同時に貨幣経済を拒む政策を敷いていましたが、国力の低下とともにそれもコントロールできなくなってしまいます。ここ景徳鎮においても、国家からの統制が緩んだ隙に、本来は許されない民窯(民間運営の窯)での陶磁器生産が始まり、貨幣収入を求めて人々はその売り先を探し求めました。折しも世界は大航海時代も成熟期を迎え、オランダ東インド会社も設立され、ヨーロッパの有力諸国は、グローバルな交易を求め世界を駆け巡っていました。彼らにとって景徳鎮で生産された磁器は、自国では生産できない品物であり、格好の標的になったのです。

 一方日本は、1500年代後半に興った茶の湯の大ブーム、秀吉の朝鮮出兵、関ヶ原の合戦と続く大きな時代のうねりを経て、江戸幕府によって世情が安定し始めたころでした。それらの激動の時代の裏で日本経済を支えていたのは石見銀山の開発でありました。当時世界で流通した銀の1/3を石見が支えていたと言われるほどですから、権力者たちは戦を繰り返すその裏で、石見を支配下に収めることを実行しました。世界経済を動かすほどの石見の銀は金余り状態を生み出し、権力者たちは世界の珍しいものを求めて、やがて景徳鎮の陶磁器にまで興味を持つようになっていくのです。

 茶の湯の世界ではわび茶を目指した利休の時代が終わりを告げ、その後の古田織部・小堀遠州といった大名茶人が牽引する時代が到来します。侘びを極めた茶の湯も、新しいタイプの茶人たちの趣向が大きく反映され、その結果が景徳鎮陶磁器の大量輸入へとつながって行くのです。

 長々と歴史の流れについてお話をしてきましたが、古染付は、明朝末期に景徳鎮の官窯の管理体制が崩れ、民窯がそれに代わって奔放な作品を生み出したことで誕生した焼物なのです。つまり明国の末期から、清国に変わるまでの短い時代に生み出された染付磁器の名前だということです。大きさも形も多種多様な古染付が日本に輸入されましたが、おそらく初期の段階においては、日本からの注文と言うよりは、明国の人々が生活の中で多用したであろう五寸程度の薄手の丸皿がその大半であったと思われます。やがて日本の数寄者たちは自分の好みに合った形状のものを発注するようになり、その結果、志野や主に織部に見られるような、型を用いて成形した、肉厚の、葉型、扇型、動物型、魚型、富士山型など多様な形の向付や鉢が生み出されていきます。後の時代に「伊万里」で大量に生産されたような大皿や大鉢は、桃山、江戸初期の茶の湯の趣向には合わなかったためか、当時の景徳鎮から日本に輸入された作品の数は限定的で、多くはオランダ東インド会社を通じて、中東そしてヨーロッパへもたらされたようです。

 古田織部没後、日本から景徳鎮に出された注文に、小堀遠州の影響が色濃く見えるようになると、「古染付」の輸入も最後の時期に入ります。それまでの奔放で奇抜な形の向付類を喜んだ風潮から、鮮やかな瑠璃色の染付色を持ち、洗練された幾何学文で装飾された意匠の「祥瑞」と呼ばれる磁器が流行し、次第に「古染付」の一大ブームはフィナーレを迎えます。

 「古染付」は、もともと明国では禁輸令の下、それに逆らった形で交易が行われたため、そこには多くの「倭寇」と呼ばれる非公式な交易を生業とする人々の活躍があったものと思われます。「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」という浄瑠璃や歌舞伎の演目でも知られる鄭芝龍(ていしりゅう)、鄭成功(せいこう)父子などがその人たちです。
 彼らは明国籍とも日本国籍とも判別できない人員構成の集団で、交易をくり返し、明国の締め付けが厳しくなると日本へ雲隠れし、また交易の機会を伺うというような行動をとっていたようです。
 年を経るごとに彼らは富を蓄え、やがては軍事力を手にして、明国政府には手に負えない存在にまで勢力を拡大していきますが、清国が明国に侵攻を開始する頃になると、清国に抵抗勢力として、明国を擁護する姿勢へと変化していきます。しかし、抵抗むなしく、やがて漢民族の明国が滅亡し、満州族の清国が成立します。

清国樹立後しばらくの期間をおいて、再び景徳鎮から染付の磁器が日本にもたらされるようになりますが、それは古染付とは趣向が微妙に異なるものでした。そのため、新しく渡ってきたものという意味で、「新渡(しんと)染付」と呼ばれて区別されるようになり、「古染付」の時代が終わるのです。

古染付2につづく

食知新