BLOGうつわ知新2020.12.27

永楽1

「うつわ知新」の配信2年目は、季節ではなく備前や織部、古染付といった焼物ごとにうつわをご紹介し、梶高明さんにそれぞれを解説いただきます。 また、せっかくの美しい器ですから、京都の著名料理人に、それぞれの器に添う料理を誂えていただき、料理はもちろん器との相性やデザインなどについてお話しいただきます。

4回目は「永楽」の器について梶さんにレクチャーいただき、京都和食界の雄「祇園さゝ木」の佐々木浩さんのほか、グループ店の「祇園 楽味」水野料理長、「鮨 楽味」野村料理長に料理をおつくりいただきました。

「永楽」の解説については、永楽1「歴史」永楽2「それぞれの器解説」の2回に分けて配信いたします。
「永楽」の世界観をお楽しみください。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

永楽 その歴史

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茶道具を中心に作品を生み出す陶芸家たちを茶陶(ちゃとう)の作家などと呼んでいますが、その茶陶の代表格といえば樂家と永楽家の両家と言えるでしょう。今回は、その一つの永楽家についてお話していきます。

永楽家は本来の姓を「西村」と言い、代々の当主は「善五郎」を名乗り、その初代は室町時代の終わりに奈良の西ノ京に住まいしていました。永楽と名乗り始めるのはずっと後の幕末のころになってからで、春日社の供御器(くごき)と呼ばれる、神事に用いるうつわを作る職人であったようです。

やがて二代目の頃、茶の湯が広く流行し、侘び茶(わびちゃ)を主導した武野紹鴎(たけのじょうおう)などから土風炉の注文を受けるようになると、堺に移り住みます。
三代目の頃には千家からの注文も受け賜るようになり、住まいを京都へ移し、下京の六条東洞院(ろくじょう ひがしのとういん)に居を構え、さらに室町下立売(むろまち しもだちうり)に移り住んだと言われています。
 その後も土風炉師の西村家は代を重ねますが、9代目の西村善五郎は技の継承もできぬまま、9歳の幼い少年(後の10代西村善五郎・了全)を遺して早逝してしまいます。この時の西村家は土風炉師であり、まだ様々な焼物を作っていたわけではありませんでした。

この9歳の少年がその後の数年間をどのように暮らしていたのかを記した資料を見いだすことが出来なかったため、お話しできないのですが、彼が18歳になった天明8(1788)、京都を天明の大火が襲います。
京都五花街のひとつで、鴨川のすぐ東にある宮川町辺り(南座の南辺り)から出火し、風に煽られた炎は鴨川の西対岸へ飛び火し、やがて京都全体を焼き尽くしたのです。この大火によって、西村家は家屋のみならず、歴代の資料や仕事道具の全てを失ってしまいます。

 そんな西村家の窮地に、表千家8世啐啄斎(そったくさい)とその子の了々斎(りょうりょうさい/後の表千家9)が手を差しのべます。
 その結果、西村家は9代樂吉左衛門(了入)の世話になり、このことが、西村家を土風炉だけでなく焼物を生産する道へと導いていくのです。
 天明の大火は京都の大半を焼き尽くしたため、当然、表千家や樂家も焼け出されてしまいました。しかしこの未曾有の大災害の下、京都の人々は力を結集して互いに助け合ったことが表千家・樂家・西村家のお話の中にも見て取れますね。

 天明の大火の約18年後、西村家は次代を担う男子(後の保全)を大徳寺の大綱和尚の仲介で養子に迎えます。このことからも、西村家の仕事が安定してきたことがうかがえます。さらに、西村家は土風炉の製作だけに留まらず、金彩で装飾した灰器や火入れなども手掛け始めます。その後、樂家との交流が強く、さらに千家からの仕事の依頼が多かったためでしょうか、西村家は樂家の至近に転居します。これが文化12(1815)の頃といわれています。さらにその2年後の文化14(1817)10代西村善五郎(了全)は隠居し、その養子(保全)11代善五郎を託し、自らは隠居名の了全を名乗ることになります。

 土風炉師の仕事に加えて、西村善五郎(了全)が、いつから他の焼物を焼き始めたのか明確にわかりませんが、文政7(1824)には表千家からの注文に対して、青磁花生や交趾焼香合の見積書を提出した記録が残されていますので、この頃にはある程度の数もこなせて、多様な焼物を焼くノウハウも蓄積されていたことが伺われます。
 文政10(1827)、表千家9世了々斎が、西村了全の作った紫交趾のうつわを紀州徳川家の治宝(はるとみ)侯の茶会に持参したところ、治宝侯は、このうつわを大層気に入ったそうです。

 時はちょうど、治宝侯が西浜御殿(にしはまのごてん)を造営し偕楽園(かいらくえん)という庭を整備している時でした。すぐさま治宝侯は、息子の西村善五郎(後の保全)を呼び寄せ、この偕楽園のお庭焼として、交趾の焼物を焼かせます。その出来栄えは素晴らしく、治宝侯はそれを労い、「永楽」と「河濱支流」の陶印を授けるのです。
 このことを契機に西村善五郎(後の保全)は永楽善五郎と名乗り始めることになったのです。また了全も天保12(1841)71歳で亡くなるまでの13年間は永楽を名乗り、磁器以外の様々な作品を残します。

 天保14(1843)11代善五郎(保全)はその長男(後の和全)12代目善五郎を譲ると、隠居名の保全を名乗るのではなく、「永楽善一郎(ぜんいちろう)」と名乗り、焼物師に特化した仕事を始めるようになります。西村家の本業である土風炉師の仕事は長男(後の和全)に譲って、土風炉師と焼物師の線引きをしようと言う狙いがあったのかもしれません。

 弘化四年(1847)、永楽善一郎(後の保全)は塗師の佐野長寛の次男(後の宗三郎)を客分として養い始め、やがて焼物師として名乗り始めた「善一郎」をこの宗三郎に譲り、「焼物師」の家を建てようとします。しかし、この行為は長男の12代永楽善五郎(和全)には受け入れられず、これを原因に、以降この親子は不仲になったと言われています。またこの頃に一旦は「善一郎」と名乗っていたところを「永楽保全」という隠居名を名乗り、作品にもその名を刻むようになります。
 嘉永元年(1848)、永楽保全は関係が悪化した息子のいる京都を離れ、琵琶湖畔の膳所(ぜぜ)に窯を築き、河濱焼(かひんやき)を興し「於湖南永楽造(おいて こなん えいらくつくる)」と作品に記すようになります。この転居や彼の陶磁器研究(七宝に興味を持ったとも言われる)にかける熱意が、彼を経済的に追い込み、嘉永3(1850)には金策のために江戸へ出向くことになります。

 保全はこの4年後の安政元年(1854)60歳の生涯を閉じることになりますが、それまでのわずかな間も精力的に動き、嘉永4(1851)には客分として預かっていた、前述の宗三郎を養子として迎え入れます。また、嘉永5(1852)に摂津高槻城主の永井直輝(ながいなおてる)侯の招きで城内に窯を築き高槻焼を興し、さらに安政元年(1854)には大津の三井寺(みいでら)の円満院門跡(えんまんいんもんぜき)の御濱御殿(みはまごてん)内で覚諄法親王(かくじゅん ほっしんのう)の御用窯として三井御濱焼を興します。
 この事は傍目には保全が人気者で引く手あまたとも見えますが、実はこうしてあちらこちらの要望に応える以外、彼が収入を得る有効な手立てがなかったのかもしれません。

 一方、同時期の12代永楽善五郎(和全)は、嘉永2(1849)に義弟の宗三郎を自らの跡継ぎにと考えた時期もあったようです。しかし、宗三郎は分をわきまえて後年、西村宗三郎として自ら分家を興しはしますが、明治9(1876)に急逝するまで、永楽家を支えることに専念するのです。
 嘉永5(1852)、和全は宗三郎が所有する御室にある仁和寺の門前の土地に、新しい窯を築きます。
 その工事の際、仁清印の陶片が多く出土したことにより、新しく築いた窯の場所は仁清の窯跡であったことが判明したのです。この出来事は、永楽家が仁清や乾山を研究し、自分たちの作品は、その技を引き継いでいかねばならないと強く意識させることにつながっていったようです。実際、私の手元に永楽和全が作った仁清写し七宝繋ぎ黒茶碗がありますが、それを作った和全が試行錯誤を繰り返した様子を、息子の14代永楽善五郎(得全)が箱に記しています。

 そして翌年の嘉永6(1853)から、この御室窯において生産が始まります。これまで京都の市中で小規模な工房で生産を続けていた状況とは違い、生産体制が整ったことで、和全はその才能を存分に発揮し、完成度の高い色絵や金襴手を量産し始めます。それを陰で支えた存在として、熟練した技術を持った義弟の宗三郎(後の13代永楽回全)と共に轆轤師の西山藤助(後の13代永楽曲全)を忘れてはならないでしょう。
 この年にペリーが来航し、和全には長男が誕生し、この子が後の14代永楽善五郎(得全)になります。翌、安政元年(1854)に保全が多額の借金を残して60歳の生涯を閉じます。この借金を背負って、幕末明治維新の動乱期を12代永楽善五郎(和全)は懸命に作陶を続け、その名を世に広めていきます。
 慶応2(1866)12代永楽善五郎(和全)は加賀大聖寺藩に招聘され、九谷焼の職人たちに明治3年までの約5年間技術指導を行います。この時、九谷山代へは宗三郎と長男(後の14代得全)を伴って出かけていますので、この間の京都での生産活動は止まったに等しい状態だったと考えられます。

 九谷では良質な金沢の金箔を用いて金襴手の作品も多く製作しました。また九谷滞在中に元号が明治に改まり、その際の「戸籍法制定」を契機に、戸籍名も西村から永楽へ変更登録しました。
 明治3(1870)に加賀山代から京都へ引き上げた12代永楽善五郎(和全)は、翌年(1871)、長男(後の得全)14代目善五郎を譲ります。隠居後の短期間は永楽善一郎を名乗りましたが、やがて隠居名の永楽和全を名乗り始めます。

ところが、京都へ引き上げてみると欧州からの文化が押し寄せており、伝統日本文化は軒並み存亡の危機に瀕していきます。当然、経済的にも追い込まれ、何とか活路を見出すべく、明治5(1872)、永楽和全は裏千家11世家元の玄々斎(げんげんさい)の高弟の鈴木利蔵の招聘に応じて、愛知県岡崎甲山(かぶとやま)の地に出向き、赤絵や染付を量産するための新たな窯を築きます。
 この岡崎で生産された作品は、やや質の劣る量産品だったために手荒く扱われたのか、はたまた運営が上手く出来なかったからか、それとも作品数が少なかったのか、どんな理由があったのかはわかりませんが、いまでは市場で見かけることがほとんどありません。
 その運営の不首尾を裏付けるように、永楽和全は明治10(1877)には甲山の窯に見切りをつけて京都に戻っています。岡崎滞在中の明治6(1873)、和全は東京へ出向き、作品を定期的に購入してもらうための頒布会組織の発足を三井家に相談していますが、不調に終わっています。このことからも当時の永楽家の窮状が見て取れます。
 残念ながら、詳細な資料を見つけることは出来ませんでしたが、和全が京都に戻ったときの永楽家の窮状は相当なものであったようで、中断に追い込まれた作陶の再開を裁判所に願い出て、ようやく家業再興の承認を受けた記録が残されています。財産を差し押さえられていたのかもしれません。

 明治15(1882)、永楽和全は油小路一条(あぶらのこうじ いちじょう)の自宅を売却し、高台寺下河原(こうだいじ しもがわら)に菊谷窯(きくたにがま)を開きます。そこでは、やや粗雑な生地を使いながらも、味わいある絵付けを施すことで、数寄者好みの趣ある作品を生み出していたと思います。先の岡崎甲山では、質の悪い生地に、粗さの目立つ絵付けの作品を生産して失敗した反省がこの菊谷窯では生かされていたのでしょう。
 菊谷窯での作品には、「永楽」印ではなく、三井高福(みついたかよし)の筆による「菊谷」の印が押され、乾山風の作品を多く製作しています。

 さて一方、14代永楽善五郎(得全)は明治3年の継承以降、父の和全と共に多くの作品を生み出します。特に呉須赤絵の作品は評価が高く、その力強くスピード感溢れる筆致が彼の特徴と言われています。
 彼は歴代の永楽の家系を整理し、実際には善五郎を名乗ることがなかった西村宗三郎と、轆轤師の西山藤助らの死後、その貢献度を評価して、両名を共に13代目に迎え入れました。彼は妻の悠(14代妙全)との間に子供をもうけることができなかったためか、得全の甥の治三郎(後の15代正全)にその技を伝えるよう努め、その甲斐もあって、得全が明治42(1909)57歳で亡くなった後、治三郎は悠が亡くなる昭和2(1929)まで彼女を支え、やがて15代永楽善五郎(正全)を襲名します。
 悠は女性ながらも、夫亡き後の家業を懸命に守る姿が評価され、大正2(1914)に三井高保(たかやす)より「悠」の印を受け、以降その手掛けた作品の箱に「悠」の朱印を押し始めますが、その後三井高棟(たかみね)より、「妙全」の号を賜り、悠(74)の亡き後、妙全の名で、夫の得全に添って、共に永楽家14代に名を連ねることになります。
 15代目永楽善五郎(正全)は、襲名から5年後の昭和7(1932)53歳の生涯を閉じますから、その間のわずかな期間に世に出た作品しか彼の仕事は見ることが出来ません。家業は昭和10(1935)に息子の16代永楽善五郎(即全)に引き継がれていきます。

 このように永楽家は、土風炉師を生業として繋いできたところ、10代目の了全によって焼物師として新たな事業を興しました。しかしそれ以降、永楽家の歩んだ道のりは平坦なものではなく、家庭内においても経済面においても、苦難の連続であったと言えるでしょう。
 歴代の永楽が茶陶の道を歩まんとしたにもかかわらず、茶道具だけではなく数多くのうつわをこの世に残していることは、茶道具だけではとても生活が成り立たなかったことを物語っているのかもしれないと私は考えています。しかし同時に、その苦労のおかげで京都のみならず、日本の懐石料理の発展にどれだけ寄与したかと言うのは今だからこそわかることで、これは永楽家の誇れる歴史だと思います。

ここでひとつ、料理人として、あるいは陶芸家として日々研鑽を積まれている皆さんにお伝えしたいことがあります。それは、この永楽家や樂家のうつわは懐石料理のバイブルと言っても良いものだということです。それらが表現する季節感、サイズや形が教え導いてくれる料理の盛り方、間合いの取り方などしっかり学んでください。
 例えば、うつわのサイズだけをとっても、茶室の広さや、折敷の大きさ、料理の品を良く見せることを考慮して作り続けられてきているのです。この長い歴史の中で作り上げてこられた懐石の標準スタイルを、これらのうつわの中から、まず学んでみてください。各々の家庭の食器棚から学ばず、日本文化の中から一度は基本を学んで見ることをおすすめします。

2回目作品解説につづく