BLOGうつわ知新2021.07.31

楽焼1

備前や織部、古染付といった焼物ごとにうつわをご紹介。京都・新門前にて古美術商を営む、梶古美術7代目当主の梶高明さんに解説いただきます。 さらに、京都の著名料理人にそれぞれの器に添う料理を誂えていただき、料理はもちろん うつわとの相性やデザインなどについてお話しいただきます。

今月のテーマは「楽焼」です。
400年の歴史を経てなお、一作品ごとの作風や個性を生み出す「楽焼」について、その歴史と魅力を梶さんに解説いただきました。
1回目は楽焼と楽茶碗について。2回目は料理に用いるうつわの見方や解説です。
そして3回目は、中華料理を新しい解釈で再構築するイノベーティブ中華の雄「ベルロオジエ」の岩崎シェフとのコラボレーションです。
中国と日本の季節感を織り交ぜた岩崎シェフの料理と楽焼との融合は稀少。
「楽焼の世界」をお楽しみください。

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梶高明

梶古美術7代目当主。京都・新門前にて古美術商を営む。1998年から朝日カルチャーセンターでの骨董講座の講師を担当し、人気を博す。現在、社団法人茶道裏千家淡交会講師、特定非営利活動法人日本料理アカデミー正会員,京都料理芽生会賛助会員。平成24年から25年の二年間、あまから手帖巻頭で「ニッポンのうつわ手引き」執筆など。 全国の有名料理店と特別なうつわを使った茶会や食事会を数多く開催。

楽焼

 毎月皆様にうつわについてお話をさせていただいておりますが、「うつわの種類など無数にあるのだから、この先もネタは尽きることないだろう。」と皆様はお考えかもしれません。ところが私は投稿を始めて以来、皆様の予想とは逆に、この場でお話しできるうつわの種類が少ないことに苦しんでいます。それは食事を楽しむためのうつわの歴史が、案外浅かったことに原因があります。

 焼物は桃山時代より古い時代へと時間をさかのぼっても存在するのですが、すり鉢や水瓶・種壺と言った道具としての焼物が存在するに過ぎません。食事を楽しむためのうつわではなく、「入れもの」に近いものが大半なのです。しかし桃山時代になって茶の湯が流行すると、土間や台所に置かれていた水瓶・種壺などの道具であった焼物に、より上級の役目を求めるようになります。そして茶室や座敷への出入りを許された茶碗などの茶道具、そして向付や鉢などの食事を楽しむうつわへと進化していくのです。

 紆余曲折を繰り返して道具から発達を遂げた多くの焼物とは違って、今回取り上げた「楽焼」は、初めて焼かれた時から茶室に出入りする許可を得ていた特別な焼物だと言うことが出来るでしょう。

 では、なぜそんな特別な焼物になり得たのでしょうか。歴史を紐解くときには私はいつも感じることがあります。それは「何の前触れもなしに、突然に物事は起こらない」という法則のようなものです。その法則に従えば、「楽焼」も茶室に出入りさせてもらえるまでの前触れがあったと言うことになります。その前触れについてお話させていただきますが、これからお話しする内容には異論がある方もおいでになるかもしれません。しかしながら、学術論文ではないので、異論があることは承知の上で、あくまで私説としてお話しさせていただきたいと思います。

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左より15代 樂直入造 焼貫茶盌、11代 樂慶入造 黒茶盌、7代 樂長入造 黒茶盌、3代樂道入(のんかう) 赤茶盌
世代による表現の違いは、個人のセンスだけでなく各時代が求めた表現が形として反映されているように感じます。

 お話は軸足をうつわではなく、茶碗に置いて進めていきます。それは、おそらく「樂焼」のうつわが誕生するのは茶碗誕生のずいぶん後の話になるため、「樂焼」を知るには、「樂茶碗」の源流を見に行く必要があるからです。

 時代は織田信長が尾張を平定し、陶器の産地として重要な意味を持つ東美濃(現在の多治見方面)へと領土を拡大した頃になります(1560年代前半)。信長は東美濃を自分の領地として再開発に着手する中で、尾張領内の瀬戸焼の職人たちを東美濃へ移住させます。当時は輸入品の唐物の茶道具が最上のものと珍重されていましたが、信長は領地内の産業振興に力を注ぎ、その結果、陶工やそれを商う商人たちを優遇します。窯業を育てる中で、国産茶道具の先駆けとして漆黒の筒状の「瀬戸黒茶碗」、別名「天正黒」が誕生します。これは信長の指示の下、千利休と今井宗及がプロデュースしたと言われています。

 私は以前、「瀬戸黒茶碗」より先に「樂茶碗」が誕生し、それが好評であったために、量産化を目指した結果、「瀬戸黒茶碗」が誕生したと考えていました。

 ところが最近は「瀬戸黒茶碗」をプロデュースした経験を生かして、千利休は「樂茶碗」を考案したのではないかと思っているのです。

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7代 樂長入造 黒茶盌
アーティストとしてセンスを表現する前に、職人として茶を飲む道具を作る意識が強いのか、作り手の個性を強く押し出してはいない作品に感じます。

 天正時代(1573〜1587年)についてもう少し詳しくお話させていただきます。千利休と織田信長の出会いは元号が天正に改元される直前の元亀4年(1573)でした。「瀬戸黒茶碗」の誕生は茶会記に記載され「天正黒」と呼ばれ、それは信長の指示があって美濃で焼かれたと言われていますので、天正10年(1582)の「本能寺の変」以前ということになります。一方、「楽焼」は樂家初代の長次郎作で天正2年(1574)の年号が入った獅子像が残されていますので、「樂茶碗」を作る以前から作陶をしていたことが考えられます。そして長次郎が茶碗を焼き始めた時期は天正7年(1579)頃という説もありますから、樂茶碗の原型となる茶碗はこのころに存在したのかもしれません。天正13年(1585)の秀吉の聚楽第(じゅらくだい)建築時に出てきた聚楽土(じゅらくつち)を用いたことから「聚楽焼」と呼ばれ、やがて秀吉から「樂」の陶印を授かることで「樂茶碗」と呼称が定まります。つまり、「樂茶碗」の誕生は聚楽第建築以降の誕生と言うことになります。実際「今焼茶碗(いまやきちゃわん)」とか「宗易形(そうえきがた)」として茶会記に出てきたのが、天正14年(1586)とされています。そして、これが利休の指導を受けた「樂茶碗」ではないかと言われ、聚楽第完成の頃の登場となるのです。

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11代 樂慶入造 黒茶盌
腰の部分の深い削りや、内側に絞り込むような口づくりに、道具としての姿より、作者の表現が優先されてきているように思えます。

 このようにコマ送りのように歴史の事実と、人物、茶会記などを照らし合わせて行くと、見えてくることがあると思いませんか。大きな窯で一度にまとまった数を焼き上げられた「瀬戸黒茶碗」に対し、数寄者たちの更に細かな要望を聞き入れ、利休自らが深くかかわり、ひとつひとつ丁寧に作りこんで焼かせたオーダーメイド茶碗が「樂茶碗」なのだと言えるのではないでしょうか。このように茶会で使うことを前提に生まれた「樂茶碗」であり、また「樂」という焼物だからこそ、特別な扱いを受けていたのだと思うのです。

 「樂焼」への発想は、利休が「瀬戸黒茶碗」を作った経験が元になっているのだろうとお話しました。それではその技術はどこからもたらされたのでしょう。もし利休が「瀬戸黒茶碗」と同じものを京都の地で焼こうと考えていただけなら、美濃から職人を呼び寄せれば容易いことだったでしょう。でも利休はそうはしなかったのは何故でしょうか。 それはきっと異なった焼物や人物との出会いによって、「瀬戸黒茶碗」を超える新しいイメージが頭に浮かんだからなのではと私は思っています。

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15代 樂直入造 焼貫茶盌
茶を飲む道具である前に、アーティストの感性が釉薬のかかり具合や腰上部の強い削りに強く表現されています。道具である前に作品であろうとする主張が溢れているようです。

 「樂焼」は中国の「華南三彩」の技術がその元になっていると言われています。それは当時、秀吉の命によって建築された聚楽第の瓦職人の中に、中国の三彩を焼く技術を持った渡来人がいたからだと考えられています。それが樂家初代の長次郎の父の阿米也(あめや)だったのではないかと言われています。

 では「華南三彩」とはどんな焼き物なのでしょう。そもそも三彩とは二種類以上の色釉(色のついた釉薬)を掛けて低い温度で焼き上げた軟陶(高温で焼き締めていない軟らかい陶器)を言います。多くは緑・黄・褐色の色釉と透明釉が用いられ、その形式によっては交趾焼とも呼ばれる焼物で、「樂焼」が誕生した時代の数寄者たちに好まれていました。その原型は紀元前2世紀の前漢の頃にはすでに見られ、8世紀近くの唐時代には技術的な熟成を見たと言われています。日本でも、奈良から平安時代にかけて「奈良三彩」という類似品が焼かれていたことからも、このような焼物の技術を持った渡来人の往来が古くから存在したことがわかります。

 そのような渡来人の持つ技術を瓦の生産に向けただけでなく、茶碗を焼かせる発想に至ったのは何故でしょう。そこには日本の統一を果たし、権力と財力を手中に収めた秀吉とその家臣たちが、ある意味、超好景気に近い状態に湧いていたからではないでしょうか。それ故、権力を示すための豪華な城や屋敷の建築、茶会や花見など華やかな行事の開催、南蛮始め世界中からもたらされた珍品や茶道具の収集に湯水のようにお金を使うことができたのでしょう。そんな世情の中で行われた聚楽第の建築工事。建築物の基礎を整える際の土木工事で聚楽土が発見されたのではないでしょうか。本来なら壁土に使うはずの聚楽土を、焼物の材料(粘土)として整え直して、茶碗を焼くところにまで持っていった遊び心にはただならぬエネルギーを感じます。

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右下赤茶碗より反時計回りで3代樂道入(のんかう) 赤茶盌、7代 樂長入造 黒茶盌、
11代 樂慶入造 黒茶盌、15代 樂直入造 焼貫茶盌
茶碗は高台側から見る方が、それぞれの個性が強く感じられるように思えます。
高台中央の形状、畳付き、高台全体の形、高台脇の様子、釉薬のかかり具合、腰のから胴への立ち上がり、ヘラの削り跡等ひとつずつ比べてみてください。

 この原稿を書くために四六時中楽焼について考えていて気づいたことがあります。それは「樂家」の作品からは量産化を目指して、効率を優先した気配を感じたことが無いと言うことです。400年強の長い時の流れの中では、職人の手を借りて、数量を作る発想も頭をよぎったことでしょう。歴代の「樂家」の当主が自らの手でひとつひとつ成形し、小さな窯で確かめながら焼成するスタイルを守り続けた結果、「樂家」の焼物は他家の楽焼のみならず、他の焼物と異なる風情を醸し出す存在になっていると思います。精神性が高いとでも言いましょうか、何か「凄味」のようなものが焼物の中に存在していると私は感じるのです。海外の知識人が好んで樂家の作品を買い求めるのは、彼らがそのことに反応しているからだと私は思っています。

 「樂」はそんな特別なうつわであり焼物なのです。

 今回のお題の「樂」は1度では到底書ききれない深い焼物です。私もこの原稿を書き始めてすぐに、一度にすべてを語ることは諦めました。そして勢いに任せて書いてみたら、「瀬戸黒」などを引っ張り出して、思っても見ない方向への話の展開になってしまいました。また近いうちに「樂」についてこの続きをお話しする機会を持ちたいと思います。

楽焼2へつづく

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